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第9回:全国学力テスト:鳥取県の学校別結果開示

投稿日:2009年10月6日 カテゴリ:教育insight

■結果公表に見る競争原理主義と人権侵害

09年9月7日、鳥取県教育委員会は、同年4月に実施された第3回全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果について、全19市町村別に加えて、各学校別平均正答率まで開示した。大阪府や秋田県などでも公開されたのは市町村別データのみであり、学校別の結果まで踏み込んで開示したのは、鳥取県が初めてである。

文科省(初等中等教育局参事室)は「文科省の方針を理解いただけなかったのは残念だ。開示結果が独り歩きし、地域や学校の序列化を招く恐れがある」(「朝日新聞」09年9月8日付)と懸念を表明した。

この鳥取県の学校別結果開示の問題は何か。どこがどのように間違っているのかを検討する中で“学力向上”とは何なのか、その意味について考えていきたい。

■4つの問題点

鳥取県の問題点の第一は、「明らかに実施要領に沿っていない」(前出参事室)という「実施要領違反」であるということ。公的な事前の約束ごとを、まるで“後出しジャンケン”のように事後に勝手に無視するのは、その内容の如何にかかわらず、まったくフェアではない。民主主義を体現すべき公共団体が先頭を切って約束を反故にするとは、公僕たる公務員精神や憲法にも反する行為であると厳しく批判されても仕方あるまい。

第二に、全国学力テストへの実施参加を決定したのは、あくまでも市町村の教育委員会であって、県教委ではない。文科省や国に対しては「地方分権」を錦の御旗に掲げながら、その返す刀で市町村の裁量権を踏みにじり、県行政の価値観や手法を強権的に貫こうとする姿勢はいかがなものか。地方分権あるいは最近の「地方主権」という民主主義の概念から考えても、何という「御都合主義」であることか。

第三には、あまりに「教室」という現場を知らなさすぎるという問題である。

鳥取県は昨年12月、県の情報公開条例を改正し、開示請求者に対して学校の序列化や過度の競争が生じることのないように「配慮」を求める規定を追加した。その結果、今回のデータからは1学年10人以下の学校が除外されたのだが、本来請求者のみに開示されるデータが万が一流出した場合、このような「配慮」はまったく無意味なものとなる。

というのも、児童・生徒数に関わらず、だれが学校の平均点の足を引っ張っているのか、データを見れば子どもたちには一目瞭然だからである。11人以上の学校であれば公表しても問題ないというのは、「教室」という現場を知らない者の判断といえよう。

特に下位となった学校では、「足を引っ張る子」、「できない子」に対する冷たい仕打ちやいじめが行われる危険もあるのだ。文科省が定めた実施要領に違反してまで公表するというのならば、「配慮」などというあいまいな規定ではなく、こういった危険までも考慮するべきであろう。

第四には、学力は児童・生徒の個別の問題であり、個人の責任としてとらえているからこそ、結果を個人に返すのである。にもかかわらず、首長たちが集団単位の「平均正答率」によるランキングに目を奪われるのは、どうしたことか。「平均正答率」で学力が低下した、向上したと騒いだところで何の意味もなさないのではないのか。これは、データ依存による本質的な矛盾といわざるを得ない。

■競争は学力向上に必要なのか

鳥取県の場合、学校別のデータ公表については、科目によって、小学校では12.1~18.0ポイントの差があるものの、中学校はたったの5.1~10.0ポイントにすぎない。こんなに小さな差しかないのに、その混乱ぶりと、得点力アップへの取り組みをさせられる学校現場が気の毒になる。

全国学力テストの結果を開示する首長たちはそろって、学力向上のためには競争も必要、結果開示は行政の説明責任だなどと言う。しかし、「適度な競争は学力向上への取り組みを活性化させる」(「読売新聞」09年9月7日付)などという考えは本当に妥当なのだろうか。競争は「過度」だからダメ、「適度」ならいいという性質のものではないはずだ。

たしかに“数値”は目に見え、だれにでもわかりやすい。たとえば大分県では、県教委が学力向上対策として、学力テストの結果公表などを条件に教員加配とリンクさせたり、多くの自治体では、数値目標と教員評価を連動させている。しかし、こうした競争原理にもとづく数値目標や結果責任論は教育条理にそぐわない。近年の「小泉・竹中」両氏の構造改革路線がもたらした「教育改革」で、現場は不毛な競争に追いたてられ、教師は疲弊し、教育現場は破綻寸前である。

“支えあい”“励ましあい”という“共創”の教育を生みだす現場の発想と工夫こそが、今求められているのではないか。

第8回:不安と疑問だらけの「全国学力テスト」

投稿日:2009年8月24日 カテゴリ:教育insight

■教員・中学生へアンケート調査を実施―はじめに

第3回「全国学力・学習状況調査」(以下、全国学力テスト)が、今年4月、全国のすべての自治体参加のもとに悉皆調査方式で実施された。

このテストの目的は、「各地域における児童生徒の学力や学習状況をきめ細かく把握・分析することにより、教育及び教育施策の成果と課題を検証し、その改善を図る」、「各学校が各児童生徒の学力や学習状況を把握し、児童生徒への教育指導や学習状況の改善等に役立てる」などとされている。

ところが、都道府県の情報公開条例を盾に、市町村別得点の開示をめぐって教育委員会に圧力がかかるケースも増えている。

そのような社会的注目の中で、今年は第3回目を実施したわけだが、果たして、現場の小中学校教員と当事者である子どもたちは、これまでこの課題にどのように取り組み、どんな成果を上げたり、疑問・不安を抱いたりしているのか、両者への全国調査を実施した。

教員対象の調査に関しては、バイアスがかかるのを防ぐために、全員参加型の研修・講演会場を選定し、会場にて配布、733名分回収。また、生徒へのアンケートは、教育委員会などを通じて各学校へ依頼。調査票は郵送で回収した。1326名分になる。

2000人を超す教員・生徒のアンケート調査結果から見えてくるものは、賛否両論あるものの、とても毎年数十億もの費用をかけて、国家的一大事業として悉皆調査方式でやるほどのものではないということに尽きる。

すでに3回の調査で目的のためのデータは十分に蓄積できたはずである。現在のまま継続すれば、むしろ目的からさらにそれて歪んでいくのではないだろうか。その兆候がすでにこのアンケート調査結果にもはっきり表れている。

速報版ではあるが、調査結果をご覧いただきたい。

■「全国学力テスト」実施に関する教員の意識調査(速報版)(PDF版:249KB)

第7回:教員免許更新制の「怪」

投稿日:2009年7月23日 カテゴリ:教育insight

■初年度から大失敗!

2009年7月15日付の朝日新聞(夕刊)によれば、教員免許更新の講習が、なんと39大学で合計228講座もが中止に至ったそうだ(7/15現在)。

文科省は、制度開始にあたって全国の大学にできる限り多く講習を開講するように要請してきた。各大学がそれに正面から応えた結果、「必修」科目は全国315大学・901講習、「選択」科目は496大学・8540講習も準備したのである。「選択」科目など約10万人の受講予定者数に対して、募集定員は約13万6600人にも及んでいる。これでは、完全な「供給過剰」であり、申込者は「必修」が約6割、「選択」に至っては約4割に過ぎない(文科省調べ)。広島大学など、8月中に「選択」科目を69講座開く予定だったものの、半数近い31講座が「0」も含めて8人以下であったために中止したという。

免許の失効を伴う大切な講習が、このような杜撰な見通しと運営で実施されているのである。これでは、受講生どころか、大学側にとってもきわめて劣悪な「経営効率」であり、各大学で今後の実施も含めて問題化することは必至である。

■教員免許更新制とは

2007年6月に改正教育職員免許法が成立し、2009年度から教員免許更新制が導入された。

対象はすべての国公私立の幼稚園から高等学校まで、管理職など一部の幹部教員を除いた現職教員約110万人である。免許の有効期限は10年で、更新時には「教育の最新事情に関する事項」12時間、「教科指導、生徒指導その他教育の充実に関する項目」18時間、合計30時間の講習を受け、修了認定を受けなければならない。受講者数は毎年10万人近くに達するはずである。

講習は、全国の教員養成課程を持つ大学などが中心となって担当する。夏休みなど休暇中に1日6時間の研修を5日間行うスタイルが一般的だが、対面型講習だけでなく、オンデマンド方式(通信・インターネットや放送による形態)も認められているために、6000人~1万人とも言われる大規模な通信型講習方法で準備している大学や、なかには、最後の試験まですべてをインターネット上で修了させる大学もある。これに対して、研修の意義や効果への疑問の声も上がっている。

■現場への重い負担

免許更新のための講習は、本当に有益なのだろうか。中身と運用の問題点や重視すべきポイントは何か、考えてみたいと思う。

第一には、受講する教員の負担があまりにも大きいという問題である。今、教員の労働時間は1日11時間にも及んでいる。ストレスから精神疾患で休職する教員は10年前の約3倍、5000人近くにまで達している。もともと教職に就いて10年目は、10年経年者の研修に該当する節目の年。ここに新たに免許更新講習が加わることになるのである。10年目の中堅・ベテラン教員は公務も多く、役職も重くなる。疲弊しないだろうか。

第二には、運用上の問題点があげられる。そもそも教員は、経年研修(初年次、2年次、3年次、5年次等)、教科研修(国語、数学、理科、英語等)、校務分掌研修(教務、図書、生活指導、PTA等)、校内の課題研修(「授業に集中させるには」「活用力のつけ方」などテーマごとに)、教育委員会の課題指定研究等、1年中何らかの研修漬けの状態に置かれている。まず、これら既存の研修を見直して整理し、研修そのものをより一層充実させることが必要である。とくに同時並行で行われる「10年研修」は、もともと免許更新制に替わるものとして設けられたものであるから、そのまま更新に必要な時数に読み替え、実質的には免許更新講習と一体化させ統合させる方が合理的で効率的ではないだろうか。

第三には、講習を担う大学側の問題である。最近の大学は、7月いっぱいまで授業を行っているところが多い。すると、講習に使える期間は、盆休みを引くと、わずか3週間ほどしかない。大学の教職員も、学会やゼミ合宿、論文執筆などで夏は大変に忙しい。教室も例年、スクーリングや研究会、諸団体に貸し出されていて満杯である。これでどのように大学教職員と教室を確保するのだろうか。

第四に、こうした10年の期限と免許更新制のリスクが、教員を目指す学生に大きな不安を与えていることである。最近では、教職課程を登録する4月の段階で“教職への道”を断念する学生が続出。教職への入口で、有能でやる気のある学生が大勢身を引いてしまい、結果として教員の“質”が低下するような事態を招いている。これでは、いかに講習でレベルアップをはかったとしても、本末転倒ではないだろうか。

こうした負の連鎖を生まないためには、教員を免許更新制で追い詰めるよりも、教職そのものに希望がわき、教員志願者が多数集まるような、温かい政策こそ必要だろう。そうでないと、全国平均でも2000年度の12.5倍から08年の4.3倍(小学校)へと急速に落ち込み始めた教員への志願倍率は、今後さらに低下する恐れがある。

■実効性のある講習か

むろん、講習の中身も重要である。“今”に特化すべきだろう。

しかし、日本の大学は「座学」中心で推移してきた。どれだけの大学教員が10年の実践家ベテラン教員に対して、更新にふさわしい講習内容を提供できるのだろうか。

他にも都市部と地方との格差や私費負担の問題、複数免許保有者は、1教科のみの更新で他教科まで更新扱いになったり、校長や副校長、教頭、主幹などは免除されたりと、これでは更新制は職階による免許に優劣の差別が生じることになり、本質的に矛盾だらけで、疑問が残るばかりである。

国による教員免許更新制は、州が教員免許を発行するアメリカを除いては、国際的にも珍しく、今回の導入は拙速の感が否めない。運用段階で、よほど大胆に学校現場の要望を受けとめないと成功は難しいだろう。現場教員も自らの問題なのだから、遠慮せずに批判すべきは批判し、積極的な改善要求や廃止提言などをすべきだろう。

第6回:「いじめ8割経験―どの学校でも」は本当か?

投稿日:2009年6月30日 カテゴリ:教育insight

■衝撃のデータ発表に

「いじめ8割経験―小中学生、被害・加害ともに」(「日経新聞」09年6月26日付夕刊)、「いじめどの学校でも―小中校を3年追跡」(「朝日新聞」―09年6月26日付夕刊)、「規律重視でいじめ潜在化?」(「東京新聞」09年6月27日付朝刊)
などと報道された、国立教育政策研究所のいじめの追跡調査結果について考えたい。

概要によれば、小4~6年、中1~中3年とも、3年間で8割の児童・生徒がいじめの被害にあったり、加害者になったりしているという。したがって、「いじめは誰でも巻き込まれ得る」「ピーク期などはない」と強調している。さらに、このようなすさまじい「実態」にもかかわらず、学校の教師たちが「未然防止の取り組みが広がらない、効果をあげない要因の一つに、教師自身がいじめに対して十分な認識を持ちえていない点をあげ」「いじめに関する校内研修の少なさも関係している」として「いじめに関する校内研修ツール」まで作成した。「至れり尽くせり」ではある。

■「記名式」のデータを見ると

もう少し詳細に見ると、調査は2004年から06年度にかけて、首都圏のある市の小中学校19校で、小4~中3の全員に“記名式”で実施。1学年あたり800人程度を対象に毎年6月と11月に1・2学期の「仲間はずれにされたり、無視されたり、陰で悪口を言われたりした―1週間に何度も、1週間に1回くらい、1ヶ月に2~3回くらい、今までに1~2回くらい、ぜんぜんされなかった」などと、体験を尋ねたものである。

昨年度中1だった生徒の同年6月の回答では、いじめ被害の回数は、「週1回以上」が8.2%、「月2、3回」が9.8%、「学期に入って1、2回」が23.7%、「全然ない」が58.4%。

その後の5回分の推移を分析すると、週1回以上は6.7~14.3%。3年間にわたり、6回とも週1回以上被害にあっていると答えた割合は0.3%。反対に、3年間でいじめ体験が全然なかった生徒は19.7%にとどまった。

同研究所は、「被害者は常に入れ替わっている。いじめっ子、いじめられっ子は特定の子という考え方を改めてほしい」(「日経新聞」、前出)としている。

一方、文科省の問題行動調査によると、2007年度に全国の小中高が認知したいじめ件数は約10万件で、前年度よりやや減少している。

■5つの気になる点

ところで、一見、緻密で「貴重」な調査に思えるのだが、私はこの調査には大きな疑念を抱かざるを得ない。

・なぜ記名式なのか

その第一は、なぜ「記名式」なのかという点である。
いじめの被害体験を、毎年6月と11月の1年に2回、3年にわたって計6回もその辛い記憶を呼び戻させ、調査しなければならなかったのかという点である。

3年間もいじめが継続した被害者にとっては、この調査がその都度いかに苦痛であったことか。おそらく、3年間いじめ続けられていた児童・生徒の中には、調査だけして、学校側が少しも止めてくれない現状に、途中で半ばあきれ果て、半ば怒りを感じたのではないか。正しく答えないで済ませた子どもも少なからずいたはずである。これは、いじめ被害者の心情に立てば、現場教師なら決して採用しない調査手法であり、極めて非教育的で残念といわざるを得ない。

「アイヒマンテスト」とも「ミルグラムの実験」とも称される残虐行為を果たす人間の心理実験は、調査の価値は高いものの、その非人間的な実験・研究手法に批判が集中したことがある。

それに類した不快さを感じるのは、現場教師経験の長かった私だからなのだろうか。杞憂であればうれしい。

・これがいじめ調査?

第二には、「いじめ」という文言を使用しないで調査を実施している配慮はよいのだが、「いじわるや、イヤなこと」体験と「いじめ」は果たして同質だろうか。イコールと定義してよいのだろうかという点である。

正確に言えば、子どもは誰でも、「いじわるや、イヤなこと」の加害・被害両方とも経験している。微妙だが、「いじめ」と「いじわる」は明らかに違っている。なぜなら「いじめ」は反撃のしようがないのだが、「いじわる」や「イヤなこと」に対しては、反撃、反論できる場合も多いからである。それが不可能になった段階でいじめに転化するのではないか。したがって、本調査は「いじわる」「イヤなこと」調査に陥った可能性が高い。

むろん、同研究所もその辺りを気にしているのか、このような行為が単純な“嫌がらせ”ではなく、いじめなのだとにおわせるメッセージを発そうとはしてはいる。しかし、何ともまどろっこしい表現で、恐らく調査する側のこのような配慮に気づいてくれる子は少なかったのではないか。アンケート調査の質問は「シンプルでわかりやすく」が大原則である。その意味では、本調査の質問の前文は、あまりに長すぎる。

・いじめのピークは文科省データが示している

第三には、いじめの「第3のピーク期」はなかったという捉え方である。これは、前述のような概念に基づいて子どもに問えば、「いじわる」や「嫌がらせ」もすべて「いじめ」と捉えている可能性があり、そうだとするならば、「ピークなどない」というのは実に的確な分析といえよう。

しかし、「いじめ」と「嫌がらせ」は似てはいるが、明白に違っている。だからこそ、いじめの文科省調査では、数字としてはピーク期が出現しているのである。

・誘導的な「Q&A」?

第四には、追跡調査報告の「Q&A」があまりにも作為的すぎないか、という点である。全体的に“教えてやる”といった雰囲気で、「上から目線」に貫かれている。これでは、現場の教師は不快感を覚えるのではないか。

・気になる「上から目線」

第五に、その「上から目線」は「生徒指導支援資料」にも端的にあらわれている。「いじめに関する校内研修ツール」は、あまりに現場教員をバカにしていないか。とりわけ「研修会実施要領」の構成内容はどうしたことか。一部を抜粋してみよう。

0.開会

「これから、○○学校の第△回目の生徒指導研修会を行います。

1.校長あいさつ(3分程度)

研修担当者 ・最初に校長先生から、お話をいただきます。

2.研修会の流れの説明(3分程度)

研修担当者 ・では、この後、私の説明に沿って、研修を行っていきますので、よろしくお願いします。(以下略)

(出典:「『いじめに関する行内研修ツール』を用いた研修会実施要領(実施担当者用)」p.5)

これでは、まるで幼稚園か何かの「発表会」の進行台本ではないか。このような力量しかない教師が、どうして人権教育の視点からいじめ問題を捉えて、創造的な取り組みを行うことができるだろうか。

■視野狭窄のマニュアル信仰―もっと大局的に

この国研のいじめ研修の手引きは、あまりにもマニュアル信仰に陥ってはいまいか。問題の本質は、このようなバカ丁寧さ、過保護な手法ではない。

なぜ現場の教師がいじめ発見や防止教育に成果をあげられないのか、「上から目線」ではなく、現場教師の苦悩を聞き取り、受け止めることからはじめるべきだろう。

厳しい言い方になるが、国研はこのようなエネルギーを文科省の施策の問題点研究に費やした方が、広い視点の科学的分析と方針が出せるのではないか。

とにかく、がっかりさせられた「成果物」である。国立教育政策研究所の調査研究と成果物としては、あまりにも自己満足的で残念としか言いようがない。

第4回:新型インフルエンザと今後の教育課題

投稿日:2009年5月29日 カテゴリ:教育insight

■吹き荒れた「新型インフルエンザ疾風」

新型インフルエンザ発生の影響で、一週間の休校措置をとっていた大阪、兵庫、滋賀、京都などで、今週一斉に休校が「解除」となった。多数の生徒の感染者を出した大阪の関西大倉高校も、6月1日に2週間の休校が解かれる。子どもたちの登校姿をテレビで観るだけで、こちらまで何だか元気が出てくるから不思議である。

この間の一連の「騒動」を整理してみると、この新型インフルエンザが教育界に与えた影響は深刻なものがある。

相次ぐ休校措置で、子どもたちは長期間家に閉じ込められた。友達との遊びも外出もままならなかった。そればかりか、目に見えぬウイルスとの闘いは精神的にも辛く、落ち着かない不安な日々であったことだろう。

文科省の調査では、5、6月中に国内修学旅行を計画している公立の小中高校のうち、中止または延期した学校は、全国で2594校。中止・延期した学校が最も多かったのが近畿ブロックであったという(5月22日段階)。また、海外修学旅行の中止・延期は、国内への変更も含めると、5/12~5/22の間だけでも、403校にも上っている。

また、中高生が参加するスポーツ大会は関西を中心に次々中止に追い込まれ、文化行事や「神戸まつり」など自治体のイベントの中止も相次いだ。せっかく子どもたちが待ち望んでいた出番も奪われてしまった。

突然の中止通知に、長期間、練習を重ねてきた努力やコンディション調整のための厳しい生活コントロールと体力づくりも実を結ぶ機会をなくした。成功や達成の夢を追いかけてきたこの間の“青春の心”はどれほど揺らぎ、壊され、希望を失ったことだろうか。いや、そればかりか、スポーツ推薦がもらえなくなるなど、将来の進路にまで大きな影響を与えた恐れさえある。これら、子どもたちが受けたショックの大きさを考えると、柔らかな心についた傷が心配である。

■露呈された多くの問題

それにしても、今回の新型インフルエンザ“騒動”は、日本の国の危機管理の危うさや教育界の官僚的な体質の問題点をも見事にあぶり出した。

その一つが、前回の「教育insight」でも述べたように、各都道府県教育行政による官僚的な紙切れ一枚の中止通知が相次いだことである。そのあまりに機械的な対応に終始した点である。

二つめは、当初、修学旅行のキャンセル料は、保護者負担にすることを前提に進んでいたことである。今回のように国家的な危機管理の大ワクの中で、都道府県の行政通知によって、やむなく延期や中止にするのであれば、その負担は当然、国や都道府県など行政が持つべきであろう。その証拠に、5/25に政府はキャンセル料については公費負担の方針を打ち出したほどである。この点、何でも受益者負担や自己責任にしてきた教育界の精神状態を見せつけられた思いがする。

三つめは、ニューヨークから帰国した高校生2人から新型インフルエンザが検出された私立洗足学園が、幼稚園から大学院まで1週間も休校処置をとらざるを得なくなった「事件」(?)である(5/28休校解除)。

発症した生徒たちは、国内感染者でもなければ、発症してから一度も登校しておらず、他に広がる恐れは全くないにもかかわらず、学園には誹謗・中傷の電話や嫌がらせメールが殺到。その結果、学校はいわば「お詫び休校」的措置をとらざるを得なかったのである。

これらの学園への犯罪的な誹謗や中傷に対して、厚労省や文科省はもちろん、県や市も、防止のための何らかの有効な対策を講じることはなかった。学校や生徒たちを守ろうと動かなかったことは強く批判されて然るべきであろう。また、メディアも公正な姿勢や社会的正義の視点から、このような「社会的パニック」状態に対して、的確に警鐘を鳴らせなかったことも残念である。今後の教訓として活かすべきだろう。

そもそも、今回の新型インフルエンザに対する国の対策が強毒性の「鳥インフルエンザ」対策に基づくマニュアルだったため、的外れもはなはだしい過剰対応ばかりが目についたのである。

麻生首相などは、テレビを使った政府広報で「政府からのおしらせです」などと抽象的な警告をオーバーにPRするばかりであった。これでは、「あまりにも選挙目当てで、何とあさましいことか!」という批判が飛び交ったのもやむなしであろう。今日の日本社会の現状は、子どもの命の安全や正義に満ちた教育環境を守る近代的国家とはとても言い難い状況であることも明らかになった。

■急げ!子どもの心へのケア

今、私たちは、修学旅行やスポーツ大会などの相次ぐ中止で大きなショックを受けている子どもたちの心を丸ごと受け止め、丁寧にケアし、学校教育を立て直すために、緊急に以下の2つに力点を置く必要がある。

第一には、「見える被害」への対応である。

例えば、修学旅行やスポーツ大会、地域の文化行事、子どもの発表会など、困難はあっても、必ずやり抜く覚悟でスケジュールの調整に入ってほしいものだ。特に子どもが参加したり、出場したりする出番のある行事や場面は、たとえ規模を大幅に縮小してでも、実施してほしい。文科省ですら、修学旅行については「教育的意義や児童生徒の心情から、実施を取りやめる場合も中止でなく延期扱いとする配慮をお願いしたい」としている。「改めて旅行を実施するよう」全国の教育委員会や学校に要請したほどである。

さらに、心をケアする当面の教育実践としては、楽しみにしていた修学旅行の中止や出番が失われたことへの悲しい「思い」を作文などにありのまま綴らせたりしながら、教師はまずその心情をまるごと受け止め、共感することである。

「先生がわかってくれた」「友達も同じ思いだったんだ」とわかるだけで、子どもたちは心が軽くなり、元気を回復していくに違いない。教育行政は、決してカウンセラー頼みの心理主義に陥ることなく、一刻も早く、学校生活の場を通して、ケアの要となる担任教師が動きやすい教育条件や環境整備を急ぐことが求められる。

第二には、子どもたちにも今回の出来事を一度突き放して相対化させることである。総合学習的な視点から、今回の事態を「学習対象」化して、冷静に、総合的に分析することである。

マスクが店頭から消えるといった一連の社会的パニック状況、新型インフルエンザの検疫体制に問題点はなかったのか、陽性であっても、30~40%も陰性反応が出ていたという「簡易キット」の信頼性の問題など、論点はたくさんある。こうした貴重な経験を風化させることなく、子どもたち自身に「なぜ」「どうして?」という“批判的な思考力”“洞察力”を発揮させながら、今回の社会的パニック体験を単なる「体験」で終わらせることなく、力強い問題解決型の「知力」へと高めることが大切である。そのまたとないチャンスでもある。

こうした「体験の相対化」を通じて、子どもたち一人ひとりが広い科学的な視野を獲得し、自分で考え、判断できる力量を育てるのではないだろうか。

第3回:「国内修学旅行中止」の背景

投稿日:2009年5月18日 カテゴリ:教育insight

■はじめに

 徳島県教育委員会は、新型インフルエンザ感染が国内で初めて確認されたことを受けて、海外だけでなく国内を含めたすべての修学旅行について「中止」を含めて再検討するよう文書で各県立学校と市町村教委に通知を出した。それを「受けた」形で、各学校は相次いで修学旅行の「中止」を決定。ある校長は「教委の通知を受け、生徒の安全を第一に考えた―」と話している。

 ここからは、ある意味で「日本の教育問題」の縮図のようなものが見えてくる。

 関係者を非難したり、気楽に評論だけする姿勢ではなく、皆さんとともに問題を整理しながら考えたい。

■「通知」行政と機械的対応の現場?

 最大の問題点は、いかに危機管理の課題とはいえ、本来、法的にも行政命令を下す権限のない「県教委」が「市町村教委」に対して、一方的な「通知」を出したことである。「アドバイス」程度なら理解できるものの、なぜ「通知」なのか―。

 県教委は、「学校における新型インフルエンザへの対応」の中で、「修学旅行等の校外行事について、新型インフルエンザの発生状況等を踏まえた上で、中止を含め再検討する」などと、あまりにも硬直な表現をとっている。
 「条件」や「期限」付きの柔軟な指針を示すのならわかるが、これでは市町村教委や校長は、段階的な対応を慎重に工夫しながら検討する余地がほとんどないに等しいではないか。

■機械的対応

 現に、徳島市内では全31小学校が5月に予定していた6年生の大阪・京都・奈良などへの修学旅行を中止。また、県内の全公立小中学校約300校の内、少なくとも174校が国内旅行の中止・延期を決めている(「読売新聞」2009年5月14日付 徳島版)。

 修学旅行ばかりではない。徳島県内の2つの市教委は5月11日、県外への遠足についても延期か目的地変更を小中学校に要請した。ある町では、四国外への遠足の自粛を求め、ある小学校では隣の香川県や淡路島への遠足までも県内に変える調整に入っているという(「徳島新聞」2009年5月13日付)。

 もちろん、教委やとくに現場の校長は「そこまでしなくても―」「せっかく子どもたちが早くから準備してきたのに―」という無念な思いでいっぱいであっただろう。

 しかし、一部の自治体を除いて、あまりに一方的、機械的、越権的な教育行政と学校現場の主体性のなさを露呈してしまった。

 結局は「右へならえ」の「責任逃れ」と言われても仕方がないだろう。

■“過剰反応”の「パニック教育」にしないために

 徳島県教委は、このままでは“過剰反応”と批判されても弁解のしようがないのではないか。ある意味で「パニック教育」になってしまった危険さえある。

 すでに「インフルエンザという言葉も聞きたくない」という子どももいると聞く(現地記者より)。
  これまで修学旅行に向けてがんばって準備したり、期待をふくらませてきた子どもたちにとっては、その「喪失感」は大きいだろう。トラウマとなってずっと心に傷を残しかねない。

 そうしないためには、今からでも丁寧な事後の「ケア」が必要であろう。今度こそ子どもたちの声を丁寧に聞きとり、保護者のサポートももらいながらじっくり腰を据えた対応と実践をすべきである。修学旅行に行けなくなったから「普通の授業をして終わり」、では済まされまい。

■見え隠れする教育界の「右へならえ」と「責任逃れ」体質

 現地では、「自分の学校だけ実施するわけにもいかず―」と悩んだ校長もいたという。そこには、市内で「連合」して修学旅行を実施するという「特殊」な事情もあったようだ。他県でも多いとはいえ、実はそのようなこれまでの「実施方式」そのものが、業者との癒着を生んだり、カルテルの疑念を生じさせるなど、今日では大問題になっているシステムなのである。

 今回のことは、「過剰反応」「責任逃れ」「上意下達」「拙速」「パニック教育」、あるいは「他地域への偏見や差別を生む」「観光地の人々への経済的打撃などへあまりに無配慮」―などさまざまな問題を提起した。

 しかしこれらは、現在の日本の教育が抱えるさまざまな問題に共通しているように思われる。

■自主的、創造的な学校づくりめざして

 徳島県内のある町の6小学校と中学校では「危機的状況ではない」として、予定通り5、6月に修学旅行を行うという。他にも保護者の意見を尊重して実施を決めている町もある。
 
 中止にしろ、延期にしろ、実施にしろ、このような場合、現場が決断するには大変な労力と勇気を要する。しかし、もともと教育とは手間のかかる仕事なのである。そこを避け労を惜しんでは、実るものも実らないのではないか。

数は少なくても主体性のある町や学校に学び、勇気をもらいながら、子どもたちが生き生きと学べる学校行事と「安全・安心」の教育を統一した学校づくりを地域や保護者、子どもたちとともに模索したいものである。

第2回:体罰認定に「目的・様態・継続時間」!?

投稿日:2009年4月30日 カテゴリ:教育insight

■戦後初の最高裁による体罰判断に

・「最高裁、体罰認定を破棄-目的・態様など考慮」(「朝日新聞」2009年4月28日夕刊)

・「小2の胸元つかみ壁に押しあて-最高裁、体罰と認めず」(「読売新聞」2009年4月28日夕刊)

この裁判は、男性臨時講師が小学2年生の男児の胸元をつかんだ行為が「体罰」に当たるかどうかが争われたものである。

裁判の結果は、この案件程度なら、その「目的・態様・継続時間」などから見て、体罰とまでは言えないとしたものである。

判決のいう「体罰」でない論拠とは何か、判決文を要約すると、

「(前略)X(筆者注:訴えられた教師)の本件行為は、児童の身体に対する有形力の行使ではあるが、(中略)被上告人(筆者注:男児)を指導するために行われたものであり、悪ふざけの罰として被上告人に肉体的苦痛を与えるために行われたものではないことが明らかである。Xは、自分自身も被上告人による悪ふざけの対象となったことに立腹して本件行為を行っており、本件行為にやや穏当を欠くところがなかったとはいえないとしても、本件行為は、その目的、態様、継続時間等から判断して、教員が児童に対して行うことが許される教育的指導の範囲を逸脱するものではなく、(中略)Xのした本件行為に違法性は認められない。(後略)」

つまり、「有形力の行使」ではあるが、「指導するために行」ったものであり、「肉体的苦痛を与えるために」行われたものではない。「穏当を欠く」ところはあったが、本件行為は「その目的、態様、継続時間等」から判断して「許される教育的指導の範囲」を逸脱するものではない。

したがって、「学校教育法11条ただし書にいう体罰に該当するものではない」というのである。

■私のコメントは

ちなみに私は、今回の最高裁判決に対して、共同通信に以下のようなコメントを出した。いろいろと配慮したつもりである。

教育的指導が目的なら有形力を行使しても構わないという判決で、影響は大きい。これではすべての体罰が容認され、死者が出ても体罰ではないことになってしまう。子どもが教師をけるのは失礼で、見過ごさずに指導しなければならない場面だ。しかし、そこでこそ心が通じるような指導力を発揮しなくてはならない。この子はそういう形でしか気持ちを表現できない子だったのかもしれない。今回の行為はグレーゾーンのレベルなのに和解に至らず、体罰論に白黒をつけるような結果になったのは不幸だと思う。

■評価する声の特徴

この判決に対して、世論は概ね好意的だ。

その理由の第一は、これで度を越したモンスターペアレントを防止できるのではないかというもの。確かに、その気持ちはわからぬわけではない。しかし、体罰容認の論拠とモンスターペアレント問題の解決方法をごちゃまぜにしてはなるまい。

第二には、「教師は口頭での指導しか許されないという風潮が強い教育界にとって、意義のある判決」(梶田叡一・兵庫教育大学学長、「読売新聞」2009年4月28日夕刊)というもの。

この判決はある意味で、文科省が2007年2月に出した通知の後追いともいえる。つまり、「やむを得ない場合、力を行使して子どもを制止することは体罰でない」とした通知である。

ここに隠された論理と心理は、「体罰を行使できないと指導できない」という考えや不安である。しかしこれは、あまりにも大きな間違いだろう。

生徒指導方法は、多様で多彩である。体罰を厳禁すれば、それだけ教師が身動きできず、各教室がルーズになるとはあまりにも力がないのではないか。

教育的指導は、何も子どもを威圧しなくても、心通いあえる手法はいくらでもある。「体罰=指導」などという狭い意識に陥ってはなるまい。

■改めて体罰禁止の法理論を学ぶ

体罰の禁止は明白である。「体罰が行使できないと指導できない」というのはとんでもない飛躍であり、暴論にすぎない。なぜなら次のように明確に「児童・生徒への懲戒権」が認められているからである。今回も「立腹し」「行為を行っており」「やや穏当を欠く」と批判しているように、これまでの体罰係争事件のほとんどが、懲戒権は一切行使せず、「腹立ち」まぎれの教師による暴力・暴行・暴言であるケースが大半であった。

学校教育法では次のように懲戒権ははっきりと認めているのである。

校長・教員の懲戒権 学校法11

校長・教員は、教育上必要があると認めるときは、児童・生徒に対し懲戒を加えることができる。

体罰の禁止 学校法11ただし書

ただし、体罰を加えることはできない。

体罰の定義もそれほどわかりにくいものではない。昭和23年12月22日の法務庁法務調査意見長官通達を見ておこう。きわめて具体的で柔軟な思考をしている。

体罰―学校法第11条にいう「体罰」とは、懲戒の内容が身体的性質のものである場合を意味する。すなわち、①身体に対する侵害を内容とする懲戒―なぐる・けるの類―がこれに該当することはいうまでもないが、さらに、②被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒もまたこれに該当する。たとえば端坐・直立等、特定の姿勢を長時間にわたって保持させるというような懲戒は体罰の一種と解せられなければならない。

しかし、特定の場合が右の②の意味の「体罰」に該当するかどうかは、機械的に制定することはできない。たとえば、同じ時間直立させるにしても、教室内の場合と炎天下または寒風中の場合とでは被罰者の身体に対する影響が全くちがうからである。それ故に、当該児童の年齢、健康・場所的および時間的環境等、種々の条件を考え合わせて肉体的苦痛の有無を制定しなければならない(「児童懲戒権の限界について」昭和二三・一二・二二調査二発一八 法務庁法務調査意見長官通達)。

■体罰裁判の歴史

では、戦後の主だった体罰判決をながめ、そこに流れている共通した考えを検討してみよう。とくに最後の「スキンシップ」と体罰のかねあいは参考になる。

①学級日誌の記載をめぐるトラブルで生徒の顔をなぐり軽いきずを負わせたのは体罰にあたる。教師が教育の現場で生徒に対して暴行することがやむを得ないと評価されるには、その生徒が人の生命・身体に現に危害を及ぼしているか、またはその可能性が具体的である場合に限られ、そうでない以上は教諭の生徒に対する暴行は違法である。<平元・四・二四 東京地裁>

②法はもとより当時の校長も体罰を禁止していたが、被告は「建前にすぎない」と考えて安易に力に頼る指導をしていた。動機は、被害者の態度に誘発された私的で短絡的な怒りの感情で、われを忘れ手加減を加えなかった。しかし、熱心な教師として被告を慕う卒業生もおり、酌むべき事情もある(近大付属女高生体罰死事件=有罪、懲役2年)。<平七・一二・二五 福岡地裁、同旨 平八・六・二五 福岡高裁>

③教師の行う体罰は、極めて軽微な場合を除き違法と解するのが相当であり、砂埋めの生徒に対する屈辱感などの精神的苦痛は相当なものであった。教諭らは、生徒指導で体罰が必要な場合もあると考えているふしもあり、教育観の再検討を促すことを含めて深刻な反省を求める(砂埋め体罰訴訟)。<平八・三・一九 福岡地裁>

<体罰とスキンシップ>の相違をどうとらえるか

④「スキンシップよりもやや強度の外的刺激」に期待される教育効果からして、①そうした有形力の行使に当たって教師が個人的感情を抑制することに配慮し、かつ、②その行為の態様が、口頭によるのと同一視してよい程度の軽微な身体的侵害にとどまる場合に限り、その有形力の行使を許容してよい。<昭五六・四・一 東京高裁>

■懲戒についても「配慮」は当然

つけ加えるなら、懲戒権の行使に当たっても“子どもの発達権”“学習権を守る”という視点は不可欠であろう。

たとえば法的にも次のように述べ、また判例もある点をわきまえたい。

懲戒についての配慮 学校法施規一三①

懲戒を加えるにあたっては、児童・生徒の心身の発達に応ずる等教育上必要な配慮をしなければならない。

*懲戒権の行使は、生徒の権利侵害をともなうことが少なくないので、「懲戒を加えるに際してこれにより予期しうべき教育的効果と生徒の蒙るべき右権利侵害の程度を常に較量し、いやしくも教師の懲戒権のよって来たる趣旨に違背し、教育上必要とされる限界を逸脱して懲戒行為としての正当性の範囲を超えることのないよう十分留意すべき」であり、そのためには「当該生徒の性格、行動、心身の発達状況、非行の程度等諸般の事情を考慮のうえ、それによる教育的効果を期待し得る限りにおいて懲戒権を行使すべきで、体罰ないし報復的行為等に亘ることのないよう十分配慮されなければならいことはいうまでもない」。<昭四五・八・一二 福岡地裁飯塚支部>

ともかく、子どもを大人や教師の下に見おろして、「指導してやる」「子どものくせに」といった視点や発想ではあまりにも野蛮といわざるを得ない。体罰客観論については、腰を据えてじっくりと考えたいものである。

第1回:全国一斉学力テストの“怪”

投稿日:2009年4月21日 カテゴリ:教育insight

4月21日(火)、全国一斉学力テストが実施される。

今年で第3回目である。今回の目玉は何といっても、これまで全国の自治体の中で唯一不参加を続けてきた愛知県犬山市も参加に踏み切り、文字通りの“全国一斉”となった点であろう。

しかし、今や全国一斉スタイルを採る国は世界でも珍しいのではないか。なぜなら、サッチャー政権下における教育改革以降、長きに渡って全国一斉テストを実施してきたイギリスでさえ、昨年10月14日、7歳・11歳は依然として継続するものの、14歳の実施は廃止することを決定したからである。学校間競争が激化し、学力は思ったほど上がらず、教育がテスト偏重にゆがんだからである。

ところで、この全国一斉学力テストのどこがどうおかしいのか、また、子どもや教師がとまどっているのか。現段階での問題点を今一度整理しておこう。

1.まず、テスト時間が長すぎること。対象である小6と中3の生徒は国語の「A・B」、数学(算数)の「A・B」の2教科・4科目に加え、生活調査に1コマ使うので、結局丸一日、テストに時間を費やすことになる。普段の定期テストなら、子どもたちはテストのために勉強もして力をつけようとするし、結果を見て、自分の弱点や課題も発見できる。また、先生の支援を受けて間違いの修正もできるために学力も身につく。だから真剣にテストに取り組む。

しかし、今日の全国一斉学力テストは、9月か10月にしか自分の手元に成績が返却されないばかりか、学校の成績にも関係のない「テスト」に、どうして本気で取り組めるだろうか。テストの間、多くの生徒が机にうつ伏している中学校あると聞く。したがって、テスト本来の意味や機能はすでに喪失しているに等しい。

2.「各学校が各児童生徒の学力や学習状況を把握し、児童生徒への教育指導や学習状況の改善等に役立てる」(文科省)ことが調査の目的と言うが、そんな学校はほとんどない。

第一、9月、10月に結果を返すのでは、日常の授業の進度上も、丁寧に点検・解説することなど不可能である。さらに、すぐにも中学生・高校生になろうとする子どもたちは、目前の進路や受験対策に追われており、4月のテストの見直しどころではない。教師も生かしようがないのだ。その時間もない。

加えて、間違いのプロセスなど何もわからぬ正否を示す「○」「×」と全国平均正答率だけが提示された「個人票」をもらっても、何をどう指導せよというのか―。あまりに現場を知らなさすぎる議論ではないか。

万一、そんなに効果があるのなら、学力向上が「売り」である私学がこぞって参加するはずである。ところが、私学の参加率は07年度の62%、08年度の53%、今年度は48%へと低下。「結果から得られるものがない」からである。

3.新しい差別を生んでいることも問題である。不登校傾向のある子どもや学力の低い子は、「学校の平均点を下げる子」という同級生からの非難の声に肩身を狭くするなど“新しい差別”が生まれ、居場所を喪失しそうになっている。

4.すでに全国ほとんどの県や市区町村が独自のテストを実施しており、文科省の言うような個別の生徒の問題点の把握や指導については、現場では日常指導を通して実施中であること。文科省のテストは意味をなさないようだ。

5.「競争すれば学力が上がる」という考えには大きな疑問符がつく。いやむしろはっきりと間違いである。学力競争ならぬ「得点力アップ競争」に陥るために、廃止したイギリスが懲りたように「テスト対策」に偏重し、得点で測ることのできる「テスト学力」だけが身に付くからである。逆に、創造的にものごとを考えたり、問題解決をはかったりする生きた学力は育ちにくい。相も変わらぬ「テスト学力」にとりつかれているだけで、生きる力を学力の土台に据えている国際社会の学力観から日本は一人とり残されていくだけだろう。

6.「一体学力とは何か」について真剣に考え直すべき時だろう。100年に1度といわれる今回の金融危機の到来。その原因や歴史的背景を見抜き、打開の方向を探れる洞察力に加えて、柔軟な思考力や発想力を発揮できる力こそ、学力の中核に据えられなくてはなるまい。

このまま「全国一斉」のテストを続ければ、国民が今よりもっとひどい「学力=点数」信仰に陥り、日本の歴史を100年遅らせることになる危険さえある。

以上、色々と問題点を列挙してきたが、何も難しく考える必要はない。学級定数を25人位にまで減じ、教員の数を2倍に増やすだけも、学校にゆとりが生まれ、子どもたちの心も学力もよみがえるだろう。OECD加盟国中、GDPに対する教育予算が最低の3.4%という現状を一刻も早く脱すべきだ(ちなみに、高等教育機関への公財政支出の対GDP比率も、国際平均1.1%に対して、日本は0.5%である)。

毎回50億円以上も費やす必要が全国一斉学力テストにあるのだろうか。サンプル調査への切り替えも視野に入れ、テストそのものについて考え直すべき時であろう。

新刊情報

160318-0737

尾木ママ

誕生日:
1947年1月3日
血液型:
A型
出身地:
滋賀県
現在の住まい:
東京
職業:
教育評論家、法政大学特任教授
臨床教育研究所「虹」所長
出演番組:
NHK教育(Eテレ)「ウワサの保護者会」
(土曜21:30~21:54放送 ※MC)

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