主夫の楽しみ
投稿日:2000年3月1日 カテゴリ:エッセイ
「お父さん――、今日、あなた家に居るの?」
中学生の娘のお弁当を詰めながら朝の慌ただしさに紛れながら妻が尋ねる。
そらきた、ヤバイなァ、どう答えようかしら。
「うーん? そりゃあ居ると言えば居るんだけど…」
いい答えが見つからぬうちに、やっぱり“正直”に返答してしまっている私。なんて、正直な人間なんだと一瞬自尊感情が頭をもたげるものの予想通りの妻の次の声に、またたく間に自己嫌悪へと突き落とされる。
「だったら居るのね。じゃあ子どもたちに夕御飯食べさせておいてね。それから、ショウ(わが家の愛犬である)の散歩も忘れないで。ちょこちょこっとじゃダメよ。たっぷりさせるのよ」
あーあ。まただ。でも私は気を取り直す。
そして、「勇気」を奮い起こして挑戦してみる。
「で、でもね。お母さん。僕の『家に居る』っていうのは、遊んだりして、ただ『居る』って意味じゃないんだよ。取材に応じたり、原稿書いたりしてるんだよ。つまり、仕事してるんだよ。もう忙しくて、忙しくて大変なんだョー」
どうかなー、今回は通じたかな? 通じるわけないよな。いつもダメなんだから…。妻の背中を見やりながら、一人でうじうじと妻の審判の声を待っている。と、何のことはない。一言。
「なァーに、つまり『居る』んじゃないの。私は、今日も会議で帰りが遅いんだからダメなの。あなたは『居る』んでしょ」
ナ・ル・ホ・ド。そりゃそうだ。明解だ。僕は「居る」。しかし、妻は「居ない」のだ。
僕の職場は自宅併設のオフィス(臨床教育研究所「虹」)。玄関こそ別々に分かれているものの、中はドア一枚でつながっている。出勤時間は、二秒もあればお釣りがくる。だから、途中で何度も「自宅」に戻ることも、研究所へ「出勤」することも可能だ。現に僕は、日に数え切れないほど「職場」と「自宅」のドアの間を自由に行き来している。
かくして、今日もまた私の“主夫業”の始まりだ。
「さて、忙しいぞ! いくらなんでもA書店の本の原稿も2章までくらいは書き上げとかないと編集担当の人もアキレちゃうしな。あっ、そうだ、その前にS新聞の連載と雑誌の原稿〆切が何本か近づいているんだっけ。午後からは、NテレビとFテレビのビデオ撮りが入っていたか…」
頭の中がパニック直前になる。「まっ、いいか、後でメモしてみよう」。
気持ちを切り替えて、まず中学生の娘を玄関で送り出す。
「気をつけて行くんだよ。曲がり角、自転車とばしすぎると車、キケンだよ。あっ、それにお父さん今日お家に『居る』からね。早く帰ってね。好きなブリ大根作っておくからね」
鉄砲玉のように早口の言葉が飛び出す。
「うん、わかった」
ルーズソックスがじゃまっ気なのか、しっかりクツもはかないまま娘は玄関から外に消えた。
「お父さん、ジャマ。アタシ遅刻しそう! のいて!」
大きなカバンを肩から下げて、今度は妻の出勤。そのカバンに押しのけられながらも、
「お母さんも大変だね。気をつけるんだよ」と、私。
私の声に返ってくるのは、
「ショウちゃんの散歩とゴミ出し、忘れないでね」
再度指示を出し出し、これまた通勤靴をつっかけながら玄関を出ていく。
これが朝の八時ジャスト。カチッというドアの閉まる確かな音を確認したとたん、心も身体も走るように忙しい私の一日のたたかいが始まる。
15分で台所の洗い物。終了と同時にNHK朝ドラの「あすか」を観る。30分に終わると、二階へ上がって、洗顔時にスイッチONにした洗濯機をチェック。おっ、もうできている。「あーあ、また大学生の娘に干し方を文句言われるなァ」と思いながら、とにかく干さなくっちゃ!と洗濯物ハンガーにテキパキつるす。ヨシ!立派なものよ、とまだ揺れているシャツを眺める。うっ、ヤバイ。もう8時40分すぎ。急いで犬の散歩に出る。こちらの焦りなどどこ吹く風。わが家の犬は、どうして、こうも道草が好きなのか。時には後戻りさえする。何とか九時のスタッフとの打ち合わせに間に合わせなくっちゃ。
6時50分に起きて9時の”本当の仕事始め”までの二時間。毎日毎朝がこのような戦争。すっかり疲れたところで、私の“本物の仕事”の始まりだ。
ところが、これはこれで実にいい。
男が家にいるという意義がよく理解できる。家に居て「主夫業」ができるからこそ、お父さんの存在が光る。“男は外で仕事”なんて資本の側の都合のいい価値観であり文化なのだと実感する。だって昔はみんなどの親父も家に居て農業や家事や商売に家族とともに、子どもの力も借りながら従事していたものだ。家事労働をかいがいしくこなしている子ほど心が豊かに育つという理屈も体験的に実感。
「お父さん、料理が上手だね」
夕食時に目を輝かせる娘のこの一言。何度聞いてもいい。家族で生きている実感がわく時だ。
(2000年3月 書き下ろし)