“愛”は身体で表現
投稿日:2007年8月1日 カテゴリ:エッセイ
「あー、危ない!」
期せずして、発せられた数人の声。
私も、右手を差し出しながら、思わず一歩前へ踏み出していた。
つい最近の東京駅ホームでのことである。
まだ2歳になるかならない、よちよち歩きの、かわいいパーマ姿の女の子が、ホームべりにある黄色の誘導ブロック上にノコノコと出てきたからだ。
「お母さんは?」次の瞬間には、誰しもそう思ったに違いない。ところが「すぐに手を延ばしても届かないような、すぐ後ろ」に、何事もなかったかのような涼しい顔つきで、母親がつっ立っているではないか。
声を上げた大人だけではなく周囲の人たちも当然、母親がびっくりして
「○○ちゃん! 危ないでしょ! ちゃんとお母さんの手を握ってなきゃ」
と、叫びながらかけ寄って、わが子を抱き上げる。そして厳しく叱咤するものとばかり信じていた。
ところが、二度びっくりである。
母親は、何のアクションも起こさなければ、声一つ発しなかったのだ。子どもはといえば、相変わらず黄色の誘導ブロックの上にゆらゆら、つっ立ったままである。
「列車が入ってきたら、あおられて危ないのに―」。
初老の夫婦が、ハラハラしながら眉をしかめて不満顔。まだ、いつでも飛び出せる身構えを崩していない。実家にでも帰っていたのだろうか、母親の左手には布製の大きな手さげ袋。
入線のアナウンスが流れると、ようやく母親は空いている右手で、わが子の上着をつかんで自分のそばに引き戻した。
周囲の大人たちは、それを見て、やっと自分の世界に戻った。ホッと安堵の空気が流れた。とたんに、赤い電車がホームにすべり込んできた。
この間、わずか1分足らず。しかし私には、10分、20分もの緊張を強いられたような“疲れ”。何よりも激しい“憤り”を感じていた。
なぜ子どもの手をしっかりつなぎ、危険から身を守る母の姿と愛を伝えないのか。パーマをかけて、人形扱いのネコかわいがりをしている場合ではあるまい。
電車が動き始めると、急に私は悲しくなった。
(ないおん8月号)