家族を結ぶ天然ボケ
投稿日:2008年4月2日 カテゴリ:エッセイ
「お母さん、さっきから何探してるの?」
家族のみんなは、早く宿を出てゲレンデに行きたいのに、何やら探している妻。
「うん、それが不思議なの。ここに置いたゴーグルがないの」
それは大変。外は吹雪。今日のスキーには必需品だ。私も娘2人と一緒に、ザックの中や部屋の洗面台などを探す。でも、ない。
へんだねーと、がっかりして家族4人が顔を見合わせたとたん、下の娘が大きな声を発した。
「お母さん! 頭につけているのはナァーニ?」
見やると、妻のスキー帽の上に、ゴーグルがしっかり乗っているではないか。みんなで大笑いしたことは言うまでもない。
とにかく妻の“天然ボケ”エピソードには、こと欠かない。おいしそうなスクランブルエッグを口に運んだとたん、ガリッ。「あれーお母さん、何かヘン。塩の固まりみたい」。娘がけげんそうな顔をしながら、コップに水を注ぐ。「うーん、もしかして、砂糖と塩を間違えたかしら」と妻。「見た目はそっくりだもんね」と私。みんな妙に納得。それから私が、砂糖と塩が入った容器のラベルを、砂糖の方には「塩」、塩の入った方には「砂糖」と逆にしたら、その後一度も間違えなくなったから不思議。今ではすっかり“正常化”している。
またある時、助手席の妻に車のナビゲートを頼んだら、「お父さん、その信号、右よ」と、実にタイミングのよい指示を出す。私がハンドルを右に切ると、
「あら、お父さん。どうして“左折”するの?」
「だって、右は、お箸を持つ方だよ」
妻が右と左を間違えたことに一瞬にして気付いた私が、こうアドバイスすると、
「あらー、そうだったかしら。ヘンね」
こんな調子で、わが家は妻を囲んだ笑いが絶えない。人間、あわてることないなぁと、しみじみと思う。
妻からは学ぶことが多い。夫婦の間では、「正しいこと」が必ずしも正義でも真実でもないからだ。大切なのは“認め合うこと”そして“許しあうこと”である。
近年、「熟年離婚」「定年後離婚」が増えていると耳にする。インターネットの離婚サイトでは、離婚する時に妻がいかに有利に慰謝料や年金を受けとるか、法的なアドバイスが飛び交っている。経験交流も盛んだ。こんなにしっかり学習し、戦略を練り上げている妻たちに、いきなり別れを切り出されたのではたまらない。まず、夫側に勝ち目はない。
「そんな!」とびっくりするようなささいな理由であっても、妻にしてみれば、30年、40年来の苦悩の末の“決断”なのだ。
妻の人権は侵していない、浮気もしていない、などといかに多くの「ない」を積み上げてみせても力にはならない。夫婦にとって大切なのは、無数の「ない」よりも、小さな「ある」の存在感、実感であろう。ちょっとしたことでいい。さりげないことでいいのだ。毎日、帰宅したら玄関の家族全員の靴をそろえる。高い所の窓ガラスふきは月1回お父さんがやる、など。とりたてて“家事”と力まなくてもいい。缶切りやビン空けはオレの仕事と決めてもいいし、何よりも「毎日大変だね」「ありがとう」「助かるよ」などという感謝の言葉の積み重ねが一番。これらが何より夫婦の心をつなぐ。心がしっかりと結ばれていれば、熟年になろうが、定年で生活スタイルがガラリと変わろうが、夫婦の心のリズムが狂ったり、妻から「ぬれ落ち葉」「粗大ゴミ」扱いされる心配もない。
現役時代の夫の家事・育児参加こそ、定年以降の長い「第二の人生」の幸せを決定づける鍵といっていい。
男性諸君! 今日は何をしましたか?
(「Let’s! 家事おやじ」『佼成』2008年4月号)