“教育パパ”が往く
投稿日:2009年1月1日 カテゴリ:エッセイ
「どうしてお父さん、法学部を薦めなかったの? 私、弁護士か薬剤師がよかったかも」
えっ! ウソだろう? そんな! わが子の進路を親が決めるなんて。モンスター級の“教育パパ”じゃないか―。大学生の娘が、自分の進路を考えあぐねて、ふと漏らした言葉に私はびっくり。
確かに、資格は職業に結びつきやすい。私も暗記が得意な娘を見て、弁護士もいいかも―と思ったことはあるものの、倍率は高いし、勉強漬けというのもかわいそうだと、法学部への進学はあまり強くは薦めなかったのだ。
「どうしてお父さんもお母さんも、自分たちが理数系が苦手だからって、自分の子どももそうだと思い込んだの? 本当は私、数学好きなんだけど…。ずいぶん進路を狭められてしまったなぁ」と、娘は不満を漏らしたこともある。
うむ、確かに当たっているかもしれない。夫婦そろって数学は大の苦手。てっきり、親の得意不得意はわが子にも遺伝するものと信じていた節がある。
あーあ、理数系にもっと目を向けておいてやればよかった。ひょっとしたら薬剤師なんていう道も、うちの子に合っていたのかもしれない―なんて後悔することしきりである。
「親が方向付けしてやらなくてどうするんです。本人は情報も判断力もないんですから」などというお父さんにもよく出会う。しかし、その都度私は、なんという“教育パパ”なのかと半ばあきれていたものだ。それだけに、わが子からそういうパパぶりを求められるとさすがに動揺する。自分は間違っていたのか。もっとわが子の進路に口を出したほうがよかったのだろうかと思ってしまう。
いやいや、そんなはずがない。「よい子」が親の期待に応えられなくて、すべてをリセットしたいと「父親殺し」に走ったり、自宅に放火して母親と弟妹が犠牲になる痛ましい事件が起きたりしているではないか。どう考えても親が方向付けするのは間違いだ。迷いながらも自ら進路を切り拓いていく意志と学力を身につけさせてやることが親の務めなのだ。
教師という職業柄、多くの子どもや若者の進路に付き合ってきた。その経験から言っても、親や教師の役割は、キャリアを拓く芯になる部分を耕してやること、鍛えてやること以外にはない。先回りして人生設計を描いてやることではないはずだ。第一、そんなプロセスを経て職に就いても、いずれ出合う困難を打開していく情熱が持てなくて、途中で投げ出しかねない。最近の政治家を見ても、世襲議員の脆さはよく批判されているではないか。
しかし、振り返ってみると、私自身ひょっとすると“教育パパ”だったのかもしれない(?)
上の娘の子育てなど、妻が働いていたこともあって、いやいや、私が子ども好きで器用だからという理由から、乳幼児期はほとんど私一人で子育てしたようなもの。授乳からオムツ交換、離乳食づくり、保育園の送迎を含めて、何でも一手に引き受けていた。
そのせいか、娘は大学生になっても「お父さん、一緒に洋服買いに行こうよ」などと誘ってくれていた(もちろん、私のサイフを頼った下心も透けていたのだが)。
心優しい子、感性豊かな子に育ってほしいと、毎日絵本の読み聞かせにいそしんだものだ。数百冊の絵本を買い、一時は家庭文庫を開けるほどの冊数に達していた。それでも飽き足りなくなった私は、娘に添い寝しながら毎晩“パパのお話”を語り聞かせて楽しんでいた。だからといって、特別、国語好きにも表現力豊かにもならなかったな? “教育パパ”というのも難しいものだ。
「ねぇねぇ、お父さん! 続きはー?」。はっと気づくと、いつの間にか眠り込んだ私を突っついている娘の指の感触が、今もほおに残っている。
(「Let’s!家事おやじ」『佼成』2008年11月号)