両親の慈愛
投稿日:2009年3月1日 カテゴリ:エッセイ
金木犀の甘い香りが、街中に漂い始めた10月上旬のこと。
「あらー、どうして直樹がここにいるの?」
ベッドに横たわった母は、こう言うなり目を見開いて私の手を握った。
「うん、直樹だよー。よくわかったねェ。お母さん」
少し冷たい母の手を握り返しながら、私は力を込めて答えた。まさか、私のことを認知でき、自分から話しかけてくるとは。予期していなかった母の反応に驚いた。
「近くに講演に来たから、お見舞いに来たんだよ」
母との「会話」の心構えが出来ていなかった私は、一瞬うろたえながらもこう答えていた。まさか、父親の四十九日の法事で郷里に帰ってきたなどと正直に言えなかったのだ。そんな私に、母は「ありがとう」と手を握り返してきた。
「厳しいですが、はっきり言って、お母さんは、どんなに長くてもあと3か月です」
医師から、こう宣告されたのは7月のこと。どんなに現代の医学が進歩しても、89歳という母の年齢を考えると、完治はかなわないのか―と、無念な思いにとらわれていた。
ところが、である。母より元気だった96歳の父が、急性肺炎で緊急入院。3週間の闘病後、急逝したのだ。まさか、余命3か月の宣告を受けている母よりも先に逝ってしまうとは―。
父の死を病床の母に伝えることははばかられた。70年近くも連れ添ってきた“空気のようなつれ合い”が急逝したことを知れば、きっと気落ちして、あっという間に父の元に逝ってしまうに違いない。
しかし、父の遺影を見上げ、お経をあげると、しみじみ親子の絆を実感させられる。
これまで空気のごとく当然のように受けていた両親の慈愛。失ってみて初めて実感として迫ってきた。
父は、気象台の予報官であった。そのせいか、私の夏休みの「自由研究」といえば、雲の観察であったり、水温の変化の記録であった。小学生にしては長期にわたる科学的「研究」のためか、よく賞をいただいた。すると、その度に「お父さんのアイデアの勝利だな」などと、一人悦に入っていた。
父の予報官ぶりは、家族の日常生活にも影響を及ぼしていた。
毎朝、「うーん、風向きは―、南西。2.5mだな。雲は―」などと体感と目視で観測。「今日は、昼過ぎからにわか雨。直樹、傘を持っていけよ」などと、指示が出る。誰も持って登校しない日でも、私だけは傘を持たされ、恥ずかしかった。しかし、午後になると、急に雨模様に。「さすが、直ちゃんのお父さんは違うねー」などと友達にうらやましがられたものだ。
また地震のときにも、わが家には変わった習慣があった。グラッと来た瞬間から家族総出で観察体制に突入。いや、正確に言うと「グラッ」の直前からだ。就寝時でも、ドンドンドン…と背中を突き上げる縦揺れ、初期微動が何秒間続いたか時計で確認し、次に大きな横揺れを待ち構える。ユッサ、ユッサ。大切なのは揺れの方向。北か東か、部屋を照らす電灯のヒモの揺れ具合を観察。これらによって、たちどころにだいたいの震源地や震度を推察する。「長野県かも」。父がメモを見ながらつぶやく。即座に計算する。これが敷地内の官舎住まいだと大変。地震発生と同時に、父は上着をはおり、庁舎へ駆けつける。情報収集とマスコミ対応の準備のためだ。
今日の私は地震ならぬ、教育関連や青少年犯罪の事件が発生するや「出動」(?)体制。新聞、テレビにコメント。機敏に分析・予測する。こんな私の仕事にも、父親の姿が重なる。
父を中心に家族があり、それを母が陰日なたなく支えていた。そんな両親のもとで私は育った。父の死に接し、そして、母との思いがけないひとときを味わい≪親の慈愛とは、喪失して初めて身にしみるものなのか≫と思う。
ほんとうに家族はいい。心安らぐまで存分に甘えていいのだ。
(「Let’s!家事おやじ」『佼成』2008年12月号)